2010年2月11日(木・祝)10:30~11:25(テレビ朝日OA) 信越放送制作
満蒙開拓青少年義勇軍は、第二次大戦中、満州へ送り出された10代半ばの少年たちです。「満洲へ行けば地主になれる」、貧しい農家の子どもたちは、希望を抱いて海を渡ります。”頓所中隊”は、教師だった頓所好文(とんどころ・よしふみ)が率いた200人の中隊で、長野県の北部を中心に集められました。終戦の一年前、1944年(昭和19)6月に渡満。少年たちは日々開拓と訓練に勤しみます。しかし、1945年(昭和20)8月9日、ソ連軍が満州に侵攻。軍にも見棄てられ、深い山中に入り決死の逃避行が始まりました。食料もなく、多くの仲間が命を落とします。そして、祖国をめざす少年たちを待ち受けていたのは、さらに苛酷な収容所生活でした。戦後、生きて還ったのは半数に満たない82名です。
15歳だった少年たちも現在は80歳。2009年夏、中国・旧満州を訪ねました。亡き友への最後の慰霊、ロシア国境から北朝鮮との国境に近い延吉まで軌跡を辿りました。この旅で、逃避行や収容所生活の惨劇、その壮絶な体験を、初めて明らかにしました。また、行方不明の中隊長・頓所好文の足跡を長女が訪ねました。7歳のときに別れたきり、ほとんど記憶もありません。旅のなかで、薄れかけていた父親への思慕の念が次第にこみ上げてきます。
【制作者から】
「満州へ行ったのは14歳の夏だった―」、少年たちの目線で、戦争を見つめます。
戦争体験者の言葉ほど重く切実に反戦のメッセージを伝えるものはありません。しかし、戦後65年、当事者の高齢化が進むなか、今、掘り起こさなければ記録されない、忘れ去られてしまう事実、失われてしまう記憶があります。反戦のメッセージを未来に渡って継いでいくために、体験者の証言を掘り起こし、狂気の歴史を検証したいと思いました。
戦争は多くの子どもたち、若者たちの命を奪います。そして日本では、世界にも類をみない国家による残虐な行為が起きました。満蒙開拓青少年義勇軍です。教師が指導者となり、10代半ばの少年たちが、将来の農業開拓団を夢見て満州へ渡ります。しかし、実際には、ソ連国境の防衛の役割を担わされ、終戦後、多くが犠牲になったのです。
満州行きの背景や、終戦間際の日本軍の動向、そして終戦後の日本政府の対応、当事者の証言など、取材を進めれば進めるほど、怒りがこみ上げてきます。少年たちに突きつけられた現実は、あまりにも苛酷でした。戦争はどのように人間を狂気へ向かわせるのか、どれほど個人の人生に深い傷跡を残すのか、筆舌に尽くし難いものがあります。そして、今回の旅で、父親を思う娘の情の深さに触れたとき、戦争が奪い去った親と子の取り戻し得ない時間のかけがえのなさ・尊さに胸が詰まりました。同時に、戦争の残虐性・酷さを思い知らされます。
友だちを奪い、家族を奪い、人間のすべてを奪いつくした、戦場。当事者にとって、痛ましい記憶、心の傷は、決して癒えることはありません。歴史教科書にもほとんど記されず、歴史からも消え去ろうとする少年と教師が体験した知られざる戦争の事実を、当事者や現地の中国人の証言、記録映像や資料など多様な視点から見つめました。
旅を続け証言をするのは、高齢の人々ですが、これは、65年前、10代半ばの少年たちが経験した戦争の記録です。そして、7歳で別れた当時の気持に返って父親の面影をさがす娘の物語です。
少年たちが見た戦場とは、彼らが体験した戦争とはどのようなものだったのか。今を生きる私たちはそこから何を学び伝えることができるのか。過去の戦争の記録としてではなく、今も戦争への道を閉ざしていない日本で、多くの人々が自らへの問いかけとして、心に刻んでもらえることを願っています。とりわけ、親や教育者には、教育が戦争に果たす役割の大きさと罪深さを、真摯に受け止めてもらいたいと考えています。
【ナレーション】 山根 基世 【語 り】 吉岡 秀隆
【出演者】
須田 光司(80) 満蒙開拓青少年義勇軍・頓所中隊
長野県下高井郡山ノ内町在住
三木 玲子(72) 頓所中隊 中隊長・頓所好文の長女
池田 福治(89) 頓所中隊・副隊長(元教師)
長野市在住
楊 子栄(91) 黒龍江省勃利県在住
当時の訓練所周辺の様子を知る人
上遠野光子(72) 東安駅列車爆破事件の生存者 福島県在住
残留孤児として40年を中国で過ごす
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